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zoom RSS 「さよなら妖精」について 〜あるいはマーヤのこと〜(その1)

<<   作成日時 : 2005/04/11 16:35   >>

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注意:このエントリには「さよなら妖精」についてのネタバレ情報が多数含まれており、これから読もうとしている、あるいはいま現在読書中の方が読まれた場合、著しく興を削ぐ可能性があります。そうならぬよう、ただちにこのエントリを閉じていただければと思います。



以下は米澤穂信「さよなら妖精」についての個人的なまとめである。ひとつの物語について久しぶりにかなりの時間をかけて考えた、その記録として残すことにする。


「さよなら妖精」は東京創元社から、「ミステリ・フロンティア」というシリーズの1冊として刊行されている。一方、amazonでの書評やweb上で目にした書評では、「ミステリと言うより青春小説」という表現をいくつか見かけた。ミステリか青春小説という受け止められ方が多い、とここでは仮定してみる。
まず、この小説がミステリかどうか。ミステリにとんと疎い自分には全く判断不能だが、ミステリが「謎解きがメインでない小説」をジャンル内に飲み込む懐の深さを持つなら、これをミステリと呼ぶことは可能だろう。だがいずれにせよ、この小説の重要な部分は謎解きではない。
次に青春小説かどうか。少なくとも登場人物たちの年齢(18〜19歳)はそう呼んでいいものだし、彼らの描写の仕方やボーイ・ミーツ・ガール的な要素もそう呼ぶことを後押しするだろう。だが、自分はこの小説をそうは呼びたくない。
ジャンル分けにこだわるのは生産的な行為ではない。にもかかわらずあえてここでこだわっているのは、「『さよなら妖精』とはいったい何なのか」というひどく根元的な疑問を抱いたからだ。「青春小説」として読むことのできるこの小説が書こうとしたのは、主人公の、あるいは周囲の人間の、1年強にわたる体験やその結果としての成長それ自身なのか。そうじゃないんじゃないか。
その思い込みを補強したのは、作者が自身のサイトで自作紹介の最後に付け加えていた次の一文だった。
作中で取り上げられる事態の犯人を当てるのは、ちょっと骨が折れる仕事になるでしょう。
「事態」とはなにかは、ここでは触れない。触れていいものとも思えない。



この小説を自分の中で消化するにあたって、とある知人と取り交わしたメールがずいぶん役に立った。
知人はふたつの批判をこの小説に加えていた。ひとつ、マーヤがユーゴに心理的に帰属する根拠がよくわからない。もうひとつ、主人公がなぜユーゴに行こうとするまでに思いを強めるのか、よくわからない。
同様のひっかかりは、初読時に自分も感じた。この感想の本筋からはややそれるが、先にこの二点の批判について考えてみる。

一点目。マーヤの帰属意識、または新しいユーゴスラビアへの希望は、セルビア人とスロベニア人のハーフで、マケドニア人の血も混ざっているというマーヤの血と、父が政治家であるという家庭状況のふたつをもとに、理解しようと努力することはできる。そしておそらくその努力は徒労に終わる。日本というのんべんだらりとした国に日本人として生まれた人間にとって、かつてのユーゴスラビアに生まれ育ち、ユーゴスラビアという国のありようを愛した心情は、たぶん一生理解できない。理解できないものを理解できるように書いてあったとしたら、ほとんどの場合それは嘘だ。だからこれは、わからないままでたぶんいい。そういう国とそういう人がいる、ということだけわかればいい。

二点目は再読時のテーマの一つだった。注意して読むと、控えめな形ながらあちこちで伏線が張られている。そのいくつかを引用する。
「さて翻って我が身となると、これは大きな問題を内包している。なにが問題かといえば、これはもう幸福であること以上の問題はあるまい。」(P17)
「おれは、たとえばマーヤが先日したような意味での経験を、一つでもしたのだろうか?加上(引用者註:弓道部顧問)が弓道を通して「修練」を教えようというのならば、なにが修練されたのだろう。弓道部員としての守屋路行(引用者註:主人公の姓名)は、よほどの幸運がなければきょうで終わる。そして一年もしないうちに、おれは高校生ですらなくなってしまう。」(P60)
「もしも機会が与えられるなら。いや、与えられるのではなくその気になりさえすれば、おれはもっと色々なものに物理的にも触れられるはず。そんな直感が沸いてきた。」(P105)
「マーヤはたぶん、こことユーゴスラヴィアの聖域を、たぶんキリスト教会周辺を重ね合わせて比較し、それゆえの感慨を感じているのだろう。ひょっとしたら、他の国の聖域もダブらせているかもしれない。おれもそうしてみたい、ふとそう思った。しかしそれはおれの能力を超えることだ。いや、問題は能力というより経験だ。おれはなにも見たことがないのだ。」(P121)
「文化年間の某は、半径三里程度のこの世を、充分に把握して死んでいけたかもしれない。比べるとおれは、高度な手法を手にしていながら、なにも把握していない。周囲が複雑すぎて、なにから手をつけていいかわからない。ならせめて道標が欲しい。道標が。」(P151)
「しかしある日、その円の中にマーヤが飛び込んできた。聞くところによると、全く別の円から飛んできたという。噂には聞いていたが驚いた。そんなことができるのか、と。いや違う、そういえばそんな手もあった、という驚きか。
そしておれは思う。向こうからこちらに来られるのなら、こちらから向こうに行くこともできるに違いない。ひょっとするとそのことによって、おれはただ円の中にいるのではなくなれるのかもしれないのだ。」(P182)

あえて批判するならば、これらの描写がやや地味なモノローグだったため、他のよりインパクトの強いシーンに埋もれてしまい、結果として終盤での主人公の言動を唐突に見せている、ということは言えるかもしれない。
だが、小説としての瑕の有無とは別に、自分にはこの主人公の思いこみようはわかる。18、19の頃の有り余るエネルギーを持てあましたような焦燥感は、今ではもうその感覚自体を思い出すすべもないが、「そういう頃があった」ということは忘れようもない。だから、主人公が「ここではない場所」への脱出口として、マーヤの母国・ユーゴスラビアを幻視したそのこと自体は、感覚的にわかる。
ただ、小説の構成上やむを得なかったことを承知の上で欲を言えば、高校を卒業して大学生となった主人公が、再度ユーゴスラビア行きを決意するまでの期間について、もう少し描写が欲しかった。あくまで素人考えだが、たとえばその間にユーゴスラビアで起こったことを順に追う記述がどこかにあるだけでも、だいぶ違ったように思う。

(次のエントリに続く)

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